はじめに
これまで連載では「ストレスチェック」「ハラスメント対策」といった個別テーマを掘り下げてきました。
しかし現場で産業医をしていると痛感するのは、これらを点で実施しても十分な効果は得られない、ということです。
なぜなら、従業員の健康問題は複雑に絡み合っているからです。
例えば、ストレスチェックで高ストレス者が見つかったとします。その背景には長時間労働があるかもしれませんし、パワハラや部署内の人間関係の問題が隠れているかもしれません。
個別に対応するだけでは「場当たり的な処置」にとどまり、根本改善には至りません。
そこで重要になるのが 健康経営 という大きな枠組みです。
健康経営とは、従業員の健康を「コスト」ではなく「投資」として捉え、組織全体の成長戦略に組み込む考え方です。
産業医はこの健康経営において、データの解釈者であり、職場改善の提案者であり、経営層への助言者でもあります。
今回は、健康経営の意義と具体的手法、産業医の役割、そしてこれからの展望について詳しく掘り下げていきます。
1. 健康経営の基本的な考え方
1-1. 健康経営とは
健康経営という言葉は、アメリカの学者ロバート・ローゼンらによって提唱された概念に源流があります。
日本では2010年代に経済産業省が推進し、現在は「健康経営優良法人」の認定制度も整備されています。
その核心は「従業員の健康を守ることは、企業価値向上と同じ意味を持つ」という視点です。
不調による欠勤や離職を防ぐだけでなく、心身ともに健康な従業員が働くことで、生産性や創造性が高まり、最終的に企業の競争力を高めることにつながります。
1-2. なぜ今、健康経営が必要なのか
- 労働力人口の減少
- 長時間労働による過労死やメンタル不調問題
- ハラスメント相談の増加
- コロナ禍によるリモートワーク普及と新たな孤立感
- 健康経営が投資家からの評価対象になりつつある
これらの背景が、健康経営を単なる「福祉」ではなく「経営戦略」に押し上げています。
2. メンタルヘルス戦略の統合
2-1. 従来の課題
これまで多くの企業は、メンタルヘルス対策を「バラバラ」に実施してきました。
- 年1回のストレスチェック
- 形式的な相談窓口
- 義務だから設置しただけの衛生委員会
このように断片的であるため、従業員にとっても「意味がない」と感じられることが少なくありませんでした。
2-2. 統合の視点
健康経営では、次のように統合して考えます。
- 個人レベル:ストレスチェックでのセルフケア支援、面接指導、EAP(外部相談機関)の活用
- 組織レベル:集団分析に基づく部署単位の業務改善や管理職教育
- 経営レベル:データをKPIとして扱い、経営層が意思決定に活用する
この3層を循環させることで、点から線へ、線から面へと広がる戦略になります。
3. 産業医の具体的役割
3-1. 個人支援
従業員の不調を早期に発見し、必要に応じて休養や医療につなげます。
特に復職支援においては、段階的な勤務再開の調整や、上司への説明サポートも重要な役割です。
3-2. 組織支援
ストレスチェックの集団分析を読み解き、リスク部署を特定。
「長時間残業が常態化している」「上司からの支援が不足している」といった傾向を把握し、具体的な改善策を提案します。
3-3. 経営層への助言
産業医が持つデータや知見を経営層に届けることは、単なる義務対応から一歩進んだ「戦略的健康経営」につながります。
健康経営優良法人認定を目指す企業では、このプロセスが重要な加点要素にもなります。
4. 実務での具体例
4-1. 製造業の事例
ある工場では、ストレスチェックで「身体的疲労と単調作業のストレス」が突出していました。
産業医は、休憩室の改善や作業ローテーション、上司の声かけ研修を提案。翌年の高ストレス者割合は20%減少しました。
4-2. IT企業の事例
あるIT企業では、リモートワークによる孤立感と「上司からの支援不足」が課題でした。
産業医は、定期的な1on1ミーティング導入を提案し、さらにオンライン相談窓口を整備。
その結果、離職率が下がり、従業員満足度調査でも「職場の安心感」が改善しました。
5. デジタルツールの可能性
健康経営はデータ活用なしには語れません。
- ストレスチェックをオンライン化し、結果を自動集計
- AIを活用して異常値やトレンドを検知
- 経営層向けにダッシュボードでKPIを可視化
- チャットボットで24時間相談可能な仕組みを導入
こうしたツールにより、従業員が気軽に利用できる環境が整い、産業医も効率的にデータを活用できます。
6. KPIと効果測定
健康経営を「やりっぱなし」にしないためには、効果を定量的に測定する必要があります。
代表的な指標には以下があります。
- 高ストレス者割合
- 面接指導実施率
- 相談件数の推移
- 長時間労働者数の変化
- 欠勤率・離職率の改善
- 従業員満足度の上昇
これらを定期的にモニタリングし、改善サイクルを回すことが、持続的な健康経営には欠かせません。
7. 海外との比較
欧米では、日本のような全国一律のストレスチェック制度はありません。
代わりに「リスクアセスメント」を軸に、職場ごとのリスクを評価して改善する仕組みが一般的です。
また、従業員支援プログラム(EAP)が広く普及しており、匿名相談や外部カウンセリングが当たり前になっています。
日本は法的義務として個人調査を重視していますが、逆に「組織改善」への活用はまだ弱い部分があるといえます。
8. 今後の展望
今後の健康経営は、次の方向に進むと予想されます。
- DXの加速:リアルタイムで従業員の健康データを把握
- ハラスメント防止との統合:心理的安全性の確立が中心テーマに
- 健康経営とESG投資:投資家が企業の健康施策を評価軸に組み込む
- 多様な働き方への対応:リモート、副業、フリーランスなどを含む健康管理
産業医は、こうした新しい時代に対応するため、医療の専門性だけでなくデータ分析力や経営感覚も磨いていく必要があります。
まとめ
健康経営は「従業員の健康」と「企業の成長」を両立させる戦略です。
産業医は、その中核を担い、個人支援から組織改善、経営層への助言まで多岐にわたる役割を果たします。
ポイントを整理すると次のようになります。
- 健康経営はコストではなく投資
- 個人・組織・経営の3層を統合的に考える
- ストレスチェックやハラスメント対策は大戦略の一部
- データとKPIを活用して改善サイクルを回す
- 産業医は医療専門家であると同時に経営参謀でもある
健康経営が本当に機能すれば、従業員は安心して働き、組織は持続的に成長できます。
その未来を実現するために、産業医はこれからも進化し続ける必要があります。
✅ 次回(第6回)は「産業医と働き方改革:長時間労働対策とメンタルヘルスの両立」にフォーカスします。
現場で直面する“長時間労働のリアル”と、それを健康経営にどう組み込むかを徹底解説します。